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「長浜曳山まつり」
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長浜曳山まつりは、長浜市の旧市街地の東部(宮前町)に鎮座する長浜八幡宮の祭礼として、例年4月13日から16日を中心に行われ、豪華な曳山の巡行と曳山の舞台で演じられる子ども狂言(歌舞伎)をはじめ、のぼり山、夕渡りなどの多彩な行事がくりひろげられます。準備期間を入れると二ヶ月半にもおよぶ祭りとなります。
曳山祭りは、織田信長から浅井氏の旧領を与えられた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の今浜築城の頃に始まるといわれています。湖岸の今浜に築城した秀吉は、地名を長浜と改め、城下町を東に形成しました。この時、戦乱で焼かれていた八幡宮は、社地を現在のところに与えられて復興し、社領や祭田の寄進を受け、祭礼日も9月15日と定められました。
八幡宮の祭礼は、その由来書によると、長浜城主の秀吉が、八幡太郎義家(源義家)の後三年の合戦の凱旋の様子にちなんだ「太刀渡(たちわたり)」を町年寄十人衆(のち長刀組が行う。)に行わせたことに始まり、そののち天下人となった秀吉が男子誕生の祝いとして、長浜の町人に金子を与え、町人達は、その金子を基に曳山を造営し、八幡宮の祭礼に曵いたのが曳山祭のはじまりと伝えられています。また、曳山は「弥増し」といったとも由来書の一つには書かれています。
いずれにしても、豊臣秀吉が曳山祭の始まりに大きくかかわり、その後、長浜町人が現在に伝わる曳山祭発展させていったといえます。
この発展には、彦根藩政下も秀吉以来の長浜町屋敷年貢米三百石の免除地が継承されたこと、長浜の町が彦根城下とともに町奉行管轄の「町方」として扱われたことがあげられるが、さらに、江戸時代中期からは浜糸(生糸)に加えて、浜縮緬、浜蚊帳、浜ビロードの生産が始まり、その生産・流通の町となり、北国街道の宿場町、湖上交通の湊町、湖北真宗の拠点長浜御坊大通寺や長浜八幡宮の門前町という多様な性格を併せもつ長浜52カ町からなる約1300戸前後、人口約4800人前後の町として長浜が発展したことでした。
このような状況と中世の近江猿楽(山階座=長浜を中心とした猿楽の座で、観世流の基礎を作ったとも言われる。後に観世流に吸収)以来の芸能環境の影響や歌舞伎の隆盛の影響を受け、長浜町人の発想から曳山が芸屋台として出現したと思われます。その後、次第に再建されたり、亭の建造や見送り幕、錺金具等の装飾品の新調や購入など町人達の努力によって整備され、現在のような曳山となりました。
これらの曳山が、いずれも統一された形式をしているのは、長浜が生んだ名工・藤岡和泉(重兵衛)や同甚兵衛らの活躍と、浜仏壇と湊町として発達した船大工などの、代々の技術継承によるものといわれてます。また、国友鉄砲で有名な市内国友の金工師たちや膳所(大津市)の奥村菅次一派の錺金具や八木奇峰、中島来章、山縣(大塚)岐鳳などの絵が伝えれています。
曳山狂言は「山の芸」「芸」とも呼ばれ、おおよそ5、6〜11、2歳くらいの男の子が演じますが、その始まりは不明です。寛保2年(1742)の本教(台本)や昭和6年(1769)から外題記録によって、江戸時代中期にはすでに行われていたことがわかります。その後、一時能狂言が行われてはいますが、現在に至るまで歌舞伎が演じられ、4月の曳山祭は、曳山狂言は4基交代で行われます。それぞれ狂言を仕組み、独自の外題が付けられます。
曳山祭の進行にしたがって演奏される囃子は「しゃぎり」と総称し、曲目は「御遣り」「神楽」など山組全体で20数曲が伝承されています。
このような歴史と文化を伝える曳山祭は、近世からの伝承をもつ貴重な祭礼行事として県選択無形民俗文化財に選定され、曳山狂言は国の選択無形文化財に指定されていましたが、昭和54年2月、京都の祇園祭などとともに「長浜曳山祭の曳山行事」として国の重要無形文化財に指定されました。曳山は県の有形民俗文化財に指定されています。
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秀吉と三成、出逢い
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長浜駅前には、この三献茶に因んだ三成と秀吉の像があります。「砕玉話(武将感状記)」等に記されたこの逸話の概要は次の通りです。
「長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をた帰途、喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄って茶を所望した。対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのんだ。次に小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶をだした。秀吉が試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。相手の様子を見て、その欲するものを出す、この心働きに感じいった秀吉は、その小姓を城に連れて帰り家来とした。この小姓が、その後累進し、五奉行の一人、石田三成となった。」
喉の乾いている相手に、まずは飲みやすい温めの茶をたっぷり出し、渇きが癒えた後は熱い茶を味わってもらう・・・この逸話は気配りの進めとして、広く語られています。
石田三成の出生地は、長浜の石田町です。
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そして、「長浜」
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長浜を語る時、私たちはその「気」を語ろうとします。まつりで培われた「町衆魂」三献の茶に代表される「おもてなしの心」などなど。
新しいものが残るのではなく、古いものがよいのでもない。古くて新しいものと言えばどこかに違和を感じる・・・。
1997年の「秀吉博」でのコンセプト「フィナーレからプロローグへ」は素直に言い当てているように思われます。
「黒壁」や「秀吉博」に代表される「町衆魂」の結集で、沈下した商店街に新たな観光の灯りを見い出し、第三セクターとしても類い稀な成功例のひとつとして挙げられているように、熱い心を持った人達が永い歴史の中をさりげなく闊歩しているのを感じる町だと言えます。一人ひとりの熱い心が人の輪を産み、長所を活かしてひとつになって再生していく。人だけでなく、観光資源も同じような観点から発掘されているように感じられます。
「フィナーレからプロローグへ」
一人ひとりのアイデンテティが寄り集まって大きなうねりを作り、町が動き出す。
長浜の若き企業家集団たる「長浜商工会議所青年部」は、明日の長浜を見つめて、さらなる発展を常に模索する「意気」の集団です。
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